見えるとか、見えないとか、、、
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先日倉敷にて、
新たなクライアントのヒアリングを兼ね
敷地を見に行く。

このいびつなカタチの敷地は
ズレや視線など見えるものに対し

何かそうでないもの、そうでない場所が


浮かんでは消える、、、





見えるもの
見えないもの、

建築をつくる上でもいつも課題になる。

カタチあるものを造り出しながら
カタチないものを感じてもらう。

雰囲気というか気配というか。

光や風、音や匂いさらには記憶などなど、、、

カタチを造っていると「カタチないもの」に引かれてしまう。

香水をつくった建築家のヘルツォーク(&ド・ムーロン)も、
そうだったのかもしれない。


ちょっと意味は違うが、
かつて建築家磯崎新が「東京は見えない都市だ」
と言ったことがある。

つまり東京はやたらに無秩序に肥大化したところに、
玉手箱やびっくり箱のようにあらゆるものが氾濫しているという。


そのために都市の全体像と言うか

見通しというか

そう言うものが全く失われてしまったという。

見えるとか、見えないとか、

大事なことだと思う。


どこが目やら鼻やらおヘソやら
わからないノッペラボーな空間にいたら、
ワタクシだったら気が狂う。

人間というものは光だけでは生きられない。

昼と夜、光と闇のけじめがあるから、
生き生きしていられるのである。


そう言えば、ワタクシが建築学科の学生のときなんかは、
「ベッドルーム以外は全てガラス張りの開放型の住宅にしろ」
などという教えがまかり通っていたものである。


イタロ・カルヴィーノというSF作家の小説に
シースルーの家に住んでいた家族が
全員ノイローゼになってしまうという話しがあったような、、、

いずれにせよ、ガラス張りの家に住むというのは
それに近いものがある。

ガラス張りなんてーのは
政治家のフトコロと
たまに行く(ワタクシじゃないぞ!)
ラブホテルくらいでいいんだって!


まぁ極端な例はさておき、
明るい住居を求める近代建築の志向性は

家の中の「闇」の部分を意味のないもの
わけの分からないものとして否定し、
排除してきたカンがある。

人間は闇があるから光のありがたさが実感することが出来る。

暗い夜道をドキドキしながら歩いてきて
やっと明るい場所へたどり着いたときの喜び、、、

そうしたものが人間の精神の活性化にもつながるのだ。

こうしてもともとあるときは対立しつつも、
あるときは融合し、切り離せないものであったはずの

「自然と人間」

「光と闇」

「内と外」

「生と死」

の関係といったものを、

もう一度住居に引きつけて見直してみようと

思ってはみたものの、、、


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by kta-room | 2010-11-05 13:07 | ケンチクノコト
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